日本には、
東京から新幹線で
およそ300kmと2時間、
燕三条という街がある

その街は、
新潟県の中央に位置し
世界有数の金属加工で
知られる

新潟県を縦断する
日本最長の河川、
信濃川が
街の中心を流れる

燕三条におけるものづくりのルーツとしてよく知られる和釘。その始まりは江戸初期と考えられていますが、はっきりとわかってはいません。その金属がどこからやってきたのか、はたまた鉄を使ったのか、そして誰が奨励したか……それらを記した史料は現在まで発見されておらず確かなことがわかっていません。ここで首をかしげる方もいるでしょう。1625年(寛永2)から3年にわたって代官所奉行として三条に在城した大谷清兵衛が奨励したとの説がよく知られているからです。

この説は、1964(昭和39)年に三條新聞で連載された渡辺行一の『三条ものかたり』が初出だとされています。郷土史家の渡辺は、大谷が江戸から燕三条に鍛冶職人を招いて技術を教えたことが和釘づくりの始まりであり、燕では大谷を「清太夫様」と呼んで敬慕したとの言い伝えがあると記しています。これがのちに通説として語られていったものと考えられます。この説は伝聞をもとにしたもので史料の裏付けはなく、現在では疑問視する声が多いのも事実です。ただ一方で農民が突然金属加工を始めたとは考えにくく、支配者層にあった人物が指示した可能性は大いに考えられるでしょう。江戸時代は世襲制で職業選択の自由がありませんでした。またかつて日本各地に鉄製農具の製造修理を担った野鍛冶がおり、彼らが自然発生的に釘づくりを始めたとも考えられます。

和釘づくりのきっかけが農閑期の副業であるとの説もあくまで推測の域を出ません。農作物が収穫できない時に、生活の糧を得るために比較的容易な和釘の生産を始めたと推測されています。また江戸で和釘の需要が高まったことも、それを後押ししました。急激な人口増加で家屋が密集した江戸は火事が起きやすく、火災発生時はあえて家屋を倒壊させて延焼を防ぎました。これにより家屋を建て直し、修理するための家釘が必要とされたのです。また大工仕事には釘のみでなく、鑿や鉋、鋸などの大工道具も必要です。この需要に答えるかたちで、それらも作られて移出されるようになったと考えられます。

越後平野西部、
海と平野を隔てるように
弥彦山がそびえる

弥彦山を祀る古社
「彌彦神社」には、
日本海を渡ってきた
神様が息づく

弥彦山は鉱山として
豊富な銅が採れた

これら和釘を始め、金属製品を全国に売り歩いたのが三条の金物商人です。現在の史料では元禄年間(1688~1703年)創業の栗田重兵衛商店が最古の三条商人とされ、県外への行商を先駆けたのは宝永年間(1704~11年)に三条へ移住し、自らを「越後釘積問屋元祖」と称した神田半右衛門が挙げられます。彼らは各地から注文を受けて鍛冶屋に製品を作らせ、それを売りに行ったのです。

1832(天保3)年に三条商人の石田利八が記した行商記録には販路と得意先が記載され、常陸(茨城)、下総(千葉)、武蔵(東京・埼玉・神奈川)などが挙げられています。船で荷物を六日町(南魚沼)まで送り、陸路で馬を使役して三国街道を通り、中山道の上州倉賀野宿(高崎)で船に積み替え、利根川・江戸川・隅田川などの川筋を使って船で荷物を運んだといいます。このほか関東屋(現在の三条金物)の加藤文次郎は鬼怒川の川筋を使い、栃木方面に販路を持っていました。幕末から明治にかけて三条商人の商取引は活発に行われ、三条が「金物のまち」として広く知られるようになったと考えられます。

三条商人は、金物問屋同士(鉄物仲間)や取引先である江戸の銅鉄物問屋との間に取引の決め事をしていました。また行商の際に村々を回って小売りをするのではなく、現地の金物屋を仲介役に注文を取る仕組みを持っていました。これが他の地域の商人との大きな違いで、土地の需要を把握して製品を揃えるという強みをもっていたのです。これにより製品の幅が拡がっていったと考えられるでしょう。三条商人は物流のネットワークを通じて、巧みに情報のネットワークも構築していったのです。

また江戸期において三条商人は、自分たちの商圏を侵そうとする相手に訴訟を起こし、すべて三条を通して商売を行うように働きかけました。燕の職人が三条商人を通さずに製品を江戸へ出荷したことで裁判が起き、三条商人が勝訴している事例も見られます。

刃物の材料となる鉄は
北前船で運ばれてきた

北前船は新たな流通を
日本にもたらし、
燕三条には鉄を運び
各地に製品を届けた

交通網の発達で
全国各地へ行商する
三条商人も現れる

1864(元治元)年に会津の紀興之が編集発行した『越後土産初編』内で、「産物見立取組」(各地域の特産を番付したもの)の前頭として「三条金物」「燕 釘」が掲載されています。この時点で燕は釘のみが特産品として挙げられ、三条は金物が挙げられています。三条でも釘は作っているものの、金物と一括して表現するほどに多種多品種の製品を手掛けていたことがわかります。

三条が刃物をはじめとする実用品の製造に長けていったのは、商人たちが需要の高い製品を自身の地域で作らせる、もしくは三条を通して行商を行う取り決めをもったことで製造が三条に集中したと考えることができます。また新潟県の上越中越地方では、農作業で使用する鍬を貸し借りする貸鍬という慣行が見られます。他では野鍛冶が貸し出す例が多いのに対し、三条では鍛冶屋と農家の間に陸鍛冶(おかかじ)という仲介が入って貸出を行っていました。この陸鍛冶を金物商が担っていた例もあります。

燕市産業史料館で主任学芸員をつとめる齋藤優介さんは、「三条は製品を深め、進化させていく地域です。一方燕は製品の幅を広げていく。縦軸に拡がる三条と横軸に拡がる燕。両者がいて、燕三条の産業は発展してのではないでしょうか」と言う。

金属加工には
燃料の炭が欠かせない

三条の東、下田地区
そこはかつて
木炭の生産地として
よく知られていた

下田の森から
炭や木材が作られ、
五十嵐川から
燕三条へ運ばれた

三条の鍛冶職人は、江戸期に和釘から鍬や鉈などの農具、やがて包丁などの刃物へと製造品目を増やしていったとされます。その変遷を具体的に示す史料は見つかっておらず、当時の道具類も現代に遺されていません。それは鍛冶屋のつくる製品が日々使われる道具であり、消耗され、残りにくいものであるからです。

和釘づくりに先立つ、14世紀の室町時代。三条では河内国(現在の大阪府南東部)から移り住んだとされる職人集団「大崎鋳物師(いもじ)」が大規模な鉄器製造を行っていました。技術が異なるため、のちの三条鍛冶は直接的な繋がりを持ちませんが、この地に早くから金属加工産業が根付いていたことは非常に興味深いものと考えられでしょう。

三条市内にある室町時代の遺構、下町遺跡からは、ふいごの羽口や鉄滓といった製鉄関係の遺物が出土しています。これにより製鉄をしていたと見られ、刃物を研いだと考えられる砥石の出土例(下町遺跡・藤ノ木遺跡・割前遺跡など)もあることから刃物が使われていたとも推測されます。この刃物が三条で作られたものか移入されたものかは不明ですが、流通が未発達であった当時は地産地消が基本であることから、三条製である可能性が高いでしょう。

1658(万治元)年、三条町で記された検地帳に鍛冶町という地名が見られます。この鍛冶町が示すのは。現在の三条市本町6丁目にあった鍛冶町、もしくは本町1丁目にあった古鍛冶町かはわかりません。この頃には町を形成するほどの鍛冶屋がいたことが推測されます。

金属加工技術は
厳しい山道を越えて
もたらされた

主なルートは、
越後と会津を結ぶ山道
八十里越だ

険しい山道を超え
会津から燕三条へ
製造技術が伝わる

燕は、天和年間(1681~1683年)に農家兼和釘鍛冶職人を中心に人口が1,000名を超えるようになります。新田開発用に鎌や鍬といった農具の需要が高まり、農家を兼業する鍛冶職人が鍬や鋤などを製造するようになります。

元禄年間(1688〜1704年)に間瀬銅山で胴の採掘が始まると銅鍛冶が始まります。これにより会津や仙台から銅器製造の職人が良質の銅を求めて燕を訪れ、職人への技術伝承が行われるようになります。これにより燕では銅製の鍋や薬缶、煙管、矢立、花器などの製造が始まります。胴を得た燕が、三条とは異なるものづくりの道を模索しはじめた時期と言えるでしょう。

新潟の歴史は
信濃川とその支流の
氾濫とともにある

1896年に起こった
「横田切れ」で
越後平野のほぼ全域が浸水する

人々の思いから建設された
「大河津分水」は
東洋一の大工事と言われた

1876(明治9)年ごろから、燕三条でも洋釘の輸入が始まります。1894(明治27)年には国内で輸入洋鋼を使用した洋釘の生産も始まります。大量生産による安価な洋釘の登場で和釘製造は一気に衰退していきます。燕三条でも大正年間まで和釘の製造は続きましたが、ここで産業としては終焉を迎えます。現在も三条で作られる和釘は、主に寺社仏閣などの歴史的建造物の修復、時代劇のセットなどに使われます。

明治以降は、鉄道の普及や機械の導入で金属加工業は販路と生産量を伸ばし、日露戦争の軍需品という追い風もあって、鋸、鉈、鋏、ナイフなどの製造量が増えていきます。

出典一覧

画像1〜3:
国土地理院ウェブサイト(https://maps.gsi.go.jp/#5/36.104611/140.084556/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1)データソース:Landsat8画像(GSI,TSIC,GEO Grid/AIST), Landsat8画像 (courtesy of the U.S. Geological Survey), 海底地形(GEBCO)
画像4:
弥彦観光協会
画像5:
Ooki Jingu
画像6:
国土地理院ウェブサイト(https://maps.gsi.go.jp/#5/36.104611/140.084556/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1)データソース:Landsat8画像(GSI,TSIC,GEO Grid/AIST), Landsat8画像 (courtesy of the U.S. Geological Survey), 海底地形(GEBCO)
画像7:
「燕三条 工場の祭典」実行委員会
画像8:
日本鍛冶学会
画像9:
胎内市
画像10:
出雲崎町
画像11:
三条市
画像12:
三条市
画像13:
三条市
画像14:
新潟県立文書館
画像15:
国土地理院ウェブサイト(https://maps.gsi.go.jp/#5/36.104611/140.084556/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1)データソース:Landsat8画像(GSI,TSIC,GEO Grid/AIST), Landsat8画像 (courtesy of the U.S. Geological Survey), 海底地形(GEBCO)
画像16:
三条市
画像17:
新潟県長岡市 大竹邸記念館
画像18:
新潟県長岡市 下田氏所蔵
画像19:
信濃川大河津資料館
画像20:
信濃川大河津資料館
画像21:
国土交通省北陸地方整備局 信濃川河川事務所