燕三条について

和釘に始まる燕三条の歴史

日本の国土さながら、南北に長い新潟県のほぼ中央に位置する燕三条。燕市と三条市の二市からなるこの地域に横たわるのが、日本で最も長い川である信濃川です。万葉の時代から人々に愛された信濃川は肥沃な土地を育て、古くから農耕を支えてきました。この農業を起点に燕三条では工業や商業が発展し、世界有数の「ものづくりのまち」として知られるようになります。しかしなぜ、農業から工業へと広がりを見せたのでしょう。その歴史をひも解くと、燕三条の転機は江戸時代の和釘づくりにありました。

信濃川とその支流である五十嵐川が合流する三条周辺に暮らす農民は、頻発する洪水によって貧しい暮らしを余儀なくされていました。1608(慶長13)年、幕府直轄領となった同地に赴任した代官所奉行の大谷清兵衛はそれを解消するために和釘製造を副業として推奨し、それが根付いたとされます。やがて越後で新田開発が盛んになると開墾用農機具の製造へと発展。やがて大工道具や包丁などの刃物鍛冶へと転換していきます。一方、江戸時代に鎚起銅器の製法が伝えられた燕では、早くから和釘鍛冶は銅器などの加工業へと移行します。大正時代には洋食器の生産が盛んになり、現在につながる金属加工の一大生産地へと発展をみせます。工業化が進んだいまも、両市には鍛冶や鎚起を始めとする伝統的な技法を受け継ぐ職人が多く活躍します。

明治初期、海運が栄えた新潟県は日本一の人口を誇るほど繁栄を見せました。越後平野の中心で河川が合流する三条は物資の集散地として発展し、金物商人が日本全国に燕三条製品を届けるようになります。こうして燕三条の優れた金属製品が日本中へと知れ渡るようになりました。燕三条はいまも、人口比率に対して日本でもっとも社長が多い街といわれます。それは家族経営や数人程度の社員による小規模な企業が、刃物や金属洋食器などの金属製品を中心に多種多様な製品を作り出すからに他なりません。古くから日本の暮らしを支えてきた燕三条。その「ものづくり」を支える農工商の魅力をぜひその目で確かめてください。